Staff interview #55
堤 ゆたか(TSUTSUMI Yutaka)

現在はどのような研究をしているか教えていただけますか?
主に二つの研究テーマに取り組んでいます。
一つ目は、オゾンがイネの光合成に与える影響についての研究です。オゾンといえば有名なのは成層圏のオゾン層ですが、地表にもオゾンは存在しています。工場や車の排気ガスに含まれる窒素酸化物(NOx)に、太陽光に含まれる紫外線が当たると、光化学反応が起こってオゾンが生成されるのです。地表面のオゾンは、代表的な公害の一つとしてよく知られる光化学スモッグの主な原因物質です。
短時間に高い濃度のオゾンを浴びた植物では、葉っぱの色が白く抜けてしまい、目に見えてダメージを受けます。これを急性障害と言います。急性障害で白くなった部位では、細胞が崩壊し、クロロフィル(葉緑素)が分解されるので、光合成ができなくなります。たとえ見た目に変化が出るほどの濃度ではなくても、長期間オゾンを浴び続けると、光合成量や成長に影響があります。光合成量が減ると、当然、収量も減ってしまいます。
近年、オゾンが作物の収量に与える影響については、作物種や品種ごとのデータは蓄積されつつあります。しかし実際は、同じ作物でも、与えられる肥料の量や栄養状態はさまざまです。そこで私たちは、肥料の量や健康状態が異なるイネをオゾンに曝露する実験を行なっています。その結果を活用して、生育条件によるオゾンの影響をうまく組み込んだイネの生育・収量の予測モデルの開発に取り組んでいます。
イネにオゾンを曝露する実験の様子
なるほど。もう一つの研究テーマもイネが対象ですか?
はい。私の所属しているアジア太平洋気候変動適応研究室のミッションは、その名前の通りアジア太平洋地域における気候変動適応に向けた科学的知見の創出ですので、アジア地域の主要な作物ということで、イネを対象としています。
具体的には、イネの夜間蒸散を生育・収量モデルに組み込むための研究をしています。
蒸散は植物が大気中に水蒸気を放出する現象で、植物の水分調節や温度調節に重要な役割を果たしています。植物の蒸散量は、気象条件に左右されることから、気候変動の影響を大きく受けます。そのため、気候変動の影響予測で現在用いられているイネの生育モデルでも、蒸散量自体はすでに考慮されています。
蒸散は、空気の乾き具合と気孔コンダクタンス(植物の葉にある気孔を通る水蒸気の通りやすさ)で決まるのですが、現行の生育モデルでは昼間の気孔コンダクタンスの変動しか考慮しておらず、夜間の気孔コンダクタンスは一定という非現実的な想定に基づいています。昼間の方が蒸散量が多いのは確かですが、実際には、環境条件によって夜間の気孔コンダクタンスも変わる可能性があります。そこで私たちは、環境条件のちがいが夜間気孔コンダクタンスに与える影響を検証し、その結果を反映した生育モデルの開発を目指しています。
作物の生育をよく再現できる数理モデルができれば、光や温度、湿度などの諸条件をどう設定すれば収量が向上するか予測できるようになり、実際の対策に活かせます。
夜間蒸散について実験中
植物の蒸散量は環境の影響を受けるとのことですが、逆に蒸散が環境に影響を与えることもあるのでしょうか?
蒸散は根から吸い上げた水分を気孔から水蒸気として放出する現象ですので、土壌の水分量に影響を与えます。また、水が水蒸気になるときに周囲から熱を奪うのですが、この蒸発熱はエネルギー量が大きく、気候にとても大きな影響を与えます。夜間の蒸散はまだブラックボックスなので、影響する要因を突き止めることで、品種転換や水管理の最適化などの具体的な適応策を立案する際、重要な知見になるだろうと考えています。
しかし、植物の蒸散と環境の関係は複雑で、一筋縄ではいきません。植物は、光合成するためには気孔を開いて二酸化炭素を取り込む必要があるのですが、気孔が開くと水分がどんどん出ていきます。蒸散で失われる水分は根から取り込んだ水に由来するので、水の少ない土地だと、蒸散が過剰になって土壌の水分が不足してしまうこともあります。乾燥が進むと気孔を閉じるようになりますが、そうすると今度は光合成のための二酸化炭素が十分取り入れられず、また土壌水に含まれる栄養分を吸収できないというジレンマが生じます。
作物は周囲の環境に影響を与えますので、作物の生育だけを考えたらベストの選択肢でも、生態系や社会全体で見るとそうではないかもしれません。複雑に影響し合う状況を解きほぐし、適応への道筋を探っていくためには、他分野の方とも連携して取り組むことが重要だと思います。
適応センターに入所される前はどのような研究をしていましたか?
修士課程では、分子生物学の観点から、イネの腋芽形成に関与する遺伝子について研究していました。卒業後は、スプラウトやカイワレダイコンといったいわゆる芽物野菜を生産する会社に就職し、栽培方法の最適化について研究を行ないました。
その会社で働いていた時、オランダの企業に研修に行く機会があり、オランダでは農業や園芸がとても重要な産業として位置付けられていると知って、感銘を受けました。温室環境の自動制御や天敵昆虫の活用など、先端技術もどんどん導入されているところを目の当たりにして、現地で学びたいと強く思いました。その願いが叶い、ワーヘニンゲン大学の修士課程に進学し、その後博士課程に進みました。
オランダの大学院ではどんな研究をされましたか?
トマトの収量に関連する遺伝子型を特定する研究プロジェクトに参画しました。
オランダでは農学分野での産学連携プロジェクトが多く、私が参加したプロジェクトも種苗会社との共同研究でした。実際に生産する環境で試験する必要があるということで、実験に使うトマトの栽培は、農業試験場などではなく、一般の生産農家の温室で行なっていました。
温室は6ha (ヘクタール)もあり、非常に広大だったのですが、それでもオランダでは平均的な規模でした。広大な敷地のごく一部、3000m²をその種苗会社が借りていて、700系統からなる7000本のトマトが植えられていました。そこに通い詰めて、作物モデルの考え方にそって、収量に関係しそうな要素を計測しました。
得られたデータとそれぞれの系統のDNA情報を統計的に解析した結果、収量に関わるそれぞれの形質に重要な遺伝子座を特定しました。また、これらの遺伝子座と作物モデルを使って、高収量系統の遺伝子型を特定しました。学生時代に統計学や作物モデルの扱い方などについてしっかり学んだことが、現在の研究にも活きていると感じます。
オランダではこんな温室で研究をしていました。
これまでの研究対象は全て農作物ですね。農作物の研究に興味を持った理由は何でしょうか?
実家が兼業農家だったので、幼い頃から農業の大切さを教えられてきたことが大きいと思います。一方で、農業だけで暮らしていくことの厳しさも日々実感していましたし、農業に新規参入する人があまりいないという話も聞いてきました。日本の農業が一産業としての地位を向上していくにはどうすればいいか、どうすれば農業がもっと魅力的な産業になるかということに強い関心を持つようになりました。
今後の展望について教えていただけますでしょうか?
一つの産業として農業の地位を向上させ、農業に従事していない人にとっても魅力的な産業にしていくためにどうすればいいかについては今後も強く意識していきたいです。
適応という観点ですと、一人一人の人生の長さと比べると、気候変動はスケールも大きく複雑な問題ですので、みんなで協力しながら、将来へつないでいくことが大切だと考えています。日本では一般的に公共のものを大切にするというコンセンサスが取れているので、そこは大きなアドバンテージかなと感じます。長期的な視点に立って、なるべく将来の世代への負担が少ない適応の仕方を選ばなければならないと思いますので、そのための基礎となる知見を積み上げていきたいです。
学会にて皆さんと